大人気フォークデュオゆずのサブリーダーで、透き通る高音が魅力的な岩沢厚治さん。
あっ、岩沢厚治さんていうんだ、サブリーダーなんだと思ったそこのあなた!
そんなあなたにこそ、この記事を読んで知って欲しいと思って書いてますww
では、岩沢厚治さんについて、経歴や学歴を追いながら、生い立ちをご紹介していきます!
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ゆず岩沢厚治の生い立ち
岩沢厚治さんは、1976年10月14日、神奈川県横浜市磯子区岡村町に生まれました。
北川悠仁さんも同じ岡村町の生まれです。
(北川悠仁さんについてはこちら!)
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お父さん、お母さん、4歳上のお兄さんの4人家族で、岩沢厚治さんは次男です。
厚治(こうじ)という名前について、
「すごく愛着ありますよ。”厚治”って書く人、あまりいないですしね、自分の字っていう感じはある。
(中略)
“コージ”っていう名前が先に決まったんですよ。兄貴が幼少の頃に見てた漫画の主人公がコージだったらしくて、母親に”コージがいい”って言ってたそうで……そこからつけられたんです。でも、何故この字になったのかはわからないんですよ」引用:『B-PASS SPECIAL EDITION YUZU 1998-2008 p58』
と語っておられます。
お兄さんの一声で厚治になったんですね。
お兄さんはかわいがってくれてたそうなんですが、このエピソードからも、弟ができて嬉しかったんだろうなと感じられますね。
ほのぼのとした家庭で育ったのかななんて思いますが、どうなんでしょうか?
幼稚園時代から見ていきましょう!
幼稚園時代
岡村天満宮の境内にある岡村幼稚園に通っていました。
この岡村天満宮というのは、横浜松坂屋の屋上にあった壁画が移設された場所です。
ファンの間ではゆずの聖地として有名です。
ゆずの聖地はたくさんあるんですが、参考になる曲があります。
岩沢厚治さんが作った、地元岡村町を歌った「岡村ムラムラブギウギ」という曲です。
2019年のライブでも2019年バージョンが歌われましたし、今でも時々ライブで歌われる曲です。
地元愛を感じますね。
さてそんな岩沢厚治さん、この頃は「食べない子」だったそうです。
北川悠仁さんも、何も食べずガリガリで「もやしっ子」と言われてたそうなんですよ。
こんな共通点まであったとは…ww
園長先生や当時担任だった先生は、
「目立つ方ではなく大人しい子だった。でもいつもニコニコ笑顔で。大人になっても変わらない」と振り返る。
出展:
https://www.townnews.co.jp/0110/2017/08/24/395599.html
出展:YUZU ON AIR
今の面影がありますね。
小さい時からニコニコ笑顔だったんですね。
小学校時代
北川悠仁さんと同じ、横浜市立岡村小学校に通っていた岩沢厚治さん。
北川さんはずっと1組、岩沢さんはずっと2組で、小学校の時は話したことがなかったそうです。
北川さんが岩沢さんを知ったのは小学校5年生の時だったそうです。
少年野球をやっていて、野球チームの集合場所が、たまたま岩沢の家の前だったことがきっかけだ。
岩沢は野球チームに入っていなかったけれど、家の窓から野球メンバーが集まってくるのが見えるので、みんなに手を振ったりしていた。
他の少年が岩沢に「厚ちゃん」と呼びかけているのを聞いて、「あれが岩沢接骨院の子か」と、初めて名前を覚えたという。引用:『素顔のアーティスト ゆずp16-17』
北川さんは話したことはないけど、少なくとも興味はもったというかんじでしょうか。
岩沢厚治さんの実家は、空手道場と接骨院をされてるんですよ。
岩沢さんもお父さんから空手と柔道を習っていたそうです。
稽古が夕方4時からだったため、あまり遊べなかったといいます。
遊び盛りの時にちょっとかわいそうな気がします。
それでもずっと続けられていたようなので偉いですね。
3年生頃には食べる子になり、給食を食べるのは早かったそうです。
食べる子って…ww
出展:YUZU ON AIR
写真を見る限りガリガリですけどねww
わんぱく少年てかんじですね。
5年生で北川さんと同じく、鼓笛隊に誘われトランペットを担当するようになったものの、練習に出なくなりクビになったそうです。
小学生でクビとかあるんですね。なかなか厳しいですね。
音楽に興味を持つにはまだちょっと時間がかかりそうですね。
中学校時代
さて、北川悠仁さんと同じ横浜市立岡村中学校に進学された岩沢厚治さん。
出展:YUZU ON AIR
中学校に入ってからも柔道は続けていました。
柔道部に入部するも、部員は2人だったそうです。
2人!?それでも入部するほど好きだったんですね。
段を取れる位の腕前でありながら、面倒くさかったため、1級止まりだそうです。
もったいない!
というか、空手や柔道で機敏な動きをしていたなんて、今のライブで動かない岩沢さんからは想像できませんねww
そして、3年生の時に北川さんと同じクラスになり仲良くなるんですね。
岩沢さんは学級委員長、北川さんは規律委員を務めていたそうです。
この時は、岩沢さんがリーダーだったんですね。
さて、音楽に対しての興味は岩沢さんも北川さん同様に中学生の頃から持っていたそうです。
初めてCDを買ったのもこの頃だそうです。
COMPLEXの「BE MY BABY」だったそうです。
吉川晃司さんと布袋寅泰さんのユニットですね。
そして、13歳の誕生日に、お父さんにアコースティックギターを買ってもらい、演奏にも興味を持ち始めたのです。
お兄さんの影響で、BOOWY、ブルーハーツを聞くようになり、BOOWYのコピーバンドを始めたそうです。
ヴォーカルで、かなりの氷室狂だったとかww
全く想像つかないですね。
バンドのギタリストが、長渕剛さんの「とんぼ」を弾いてくれたことが、ギターを練習し始めたきっかけだったそうです。
“あぁ、すごいなぁ!このギターが弾ければ、「とんぼ」も歌えんのか”って感動。
じゃあ俺も「とんぼ」を歌う為にガンバロウ!って思って。それからギターを練習し始めたんですよね。
引用:『B-PASS SPECIAL EDITION YUZU 1998-2008 p9』
このことがきっかけで長渕剛さんが今でもお好きなんでしょうかね。
以前長渕剛さんのオールナイトライブで、岩沢さんが目撃されていますので、ガチのファンですね。
長渕剛さんが岩沢さんの結婚式の時にサプライズで来て下さって、北川さんが涙したというエピソードもあります。
とても嬉しかったでしょうね。
そしてゆずのお二人の関係は素敵だなと思います。
長渕剛さんとの出会いが、岩沢さんに大きな影響を与えているんですね。
高校時代
中学校卒業後、神奈川県立富岡高校(現在は金沢総合高校)に進学しました。
北川悠仁さんとは駅でばったり会って話すことはあったそうですが、疎遠になっていったそうです。
岩沢厚治さんはラグビー部に入部。
意外とスポーツマンだったんですね。
出展 :https://www.townnews.co.jp/0113/2012/10/11/160654.html
その傍らで、休み時間にギターを弾いたり、ギター部に行ったりと、音楽にも力を入れていたそうです。
ギター部で、長渕剛さんの音楽を知り、コピーを始めるようになりました。
ほんとに大好きなんですね。
1年生の冬頃には、2ヶ月に1度、地元近くの磯子駅前で、路上ライブを始めたそうです。
長渕剛さんファンには、コピーをしている歌の上手い子がいると有名だったというお話もあります。
今の、ギターとハーモニカというスタイルも、長渕剛さんが大きく影響しているようです。
ハーモニカは自分でガソリンスタンドでアルバイトして貯めたお金で買ったそうです。
ただ、最初は原チャリを買うためだったが、悪さをしてご両親からだめと言われてお金が浮いたからだったようです。
意外とヤンチャだったようですね。
でもそのおかげで、今のハーモニカにギターのスタイルができあがったわけですから、よかったですよね。
やがて伊勢佐木町の松坂屋前で路上ライブをするようになったそうです。
岩沢厚治さんのほうが先に路上デビューしていたんですね!
意外と度胸があるんですね。
意外ばっかりですねww
ゆずの結成
高校卒業後、岩沢厚治さんは国立音楽院専門学校の調律科に進学しました。
ピアノの調律師を目指していたそうです。
高校時代に遊びで始めた路上ライブが楽しく、何らかの形で音楽と関わっていきたいと思って選んだそうです。
なかなか異色の経歴の持ち主ですよね。
専門学校では仲のいい友達ができず、おもしろくなかったそうです。
地元の友達と遊んでいたんだそうです。
そして、中学校時代の友達とバンドを結成し、ドラム担当として北川悠仁さんに声をかけたのです。
バンド活動と並行して路上ライブも続けていたそうです。
カバー曲だけでなく、自作の曲も演奏するようになったそうですよ。
初めて作ったオリジナル曲は「セブンスター」らしいです。
自作の曲を演奏するようになったきっかけも、長渕剛さんだったようです。
長渕剛の音楽にぐいぐいと引き込まれ、ほかのファンとともに涙を流していたのだ。
「つよしコール」も、恥ずかしいと思わずにやっていた。音楽の力を圧倒的に実感した出来事だった。
そして、何よりも強く感じたのが、こんな力を持ったアーティストのコピーなんてやっていてもだめだ、ということだった。
会場を出ると、外では興奮した長渕ファンたちがギターをかきならしてコピー演奏をしていた。
それを見て、「違う、違う、違う」と思い、自分は自分のオリジナル曲をやらなければ、と強く思ったという。
引用:「素顔のアーティスト ゆずp41-42」
素敵なエピソードですね!
長渕剛さんとの出会いがなかったら、岩沢さんは歌手になっていなかったかもしれませんね。
そして、路上ライブを続ける岩沢さんの姿を、お兄さんと見に行った北川さんが感動し、岩沢さんにふたりで一緒にやりたいと告白。
軽い口調で「ああ、いいよ~」と岩沢さんが返事し、1996年3月デュオを結成しました。
結成当初は「Light’s」という名前でしたが、後に「ゆず」となりました。
その後、現在の事務所の社長稲葉さんが、ゆずの路上ライブを見て名刺を渡したことがきっかけで、プロへの道を歩み始めました。
たまたま伊勢佐木町の商店街を通ることがなければ、路上ライブをしていなければ出会うこともなく、ゆずはデビューしていなかったかもしれません。
ほんとに運命的な出会いですよね~!
1997年に3月には専門学校を卒業し、ゆずの活動に専念されました。
こうして、1997年10月25日にミニアルバム「ゆずの素」を発売。
ファーストシングル「夏色」が大ヒット。
その後も数々のヒット曲を生み出し、大人気フォークデュオのサブリーダーとして、影で北川悠仁さんを支えています。
おふたりは本当に正反対のタイプだなと思います。
それは、ご本人達もおっしゃっています。
お互いの性格について、20周年を迎えた時に、このように語っています。
岩沢「お互いプロ同士、相手を尊重し合ってというのは昔から変わっていませんね」
北川「僕ら、タイプが全然違うんですよ。でも、だからこそのゆずでもあると思うんです。なので、相手のことは尊重するし、ゆずの活動に関しては信頼しているし。それは強まったんじゃないですかね」
出展:
https://thetv.jp/news/detail/109025/
お互いに尊重しているのがわかります。
本当に素敵なおふたりだなと思います。
まとめ
いかがでしたか?
「ゆず岩沢厚治の生い立ちは?経歴や学歴(中学校・高校)も紹介!」と題して見てきました。
ここまで読んで下さったあなたは、すっかり岩沢厚治さんのトリコになっているのでは?
柔道に空手にラグビーと、小学生から高校生までスポーツマンだったり、北川さんより先に一人で路上ライブデビューしたり、意外な一面をたくさん知ることができました。
長渕剛さんにかなり影響を受けていることもわかりました。
長渕剛さんとの出会いがなければ、岩沢さんは歌手になっていなかったかもしれないですね。
岩沢さんファンの私としては、長渕剛さんに大感謝ですww
20年以上ゆずのサブリーダーとして、北川さんを影で支えている岩沢さん。
同じタイプだと反発することが多いのではと思うので、お互いにない部分を補える関係だからこそ、20年以上変わらずに第一線で活躍されてきたのだと思います。
岩沢さんは目立たないかもしれない、けれども、唯一無二の存在なんです!
これからもそんな岩沢さんを応援していきましょう!
最後までお付き合いありがとうございました。
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